嵐が丘
黒く塗りつぶされた視界に太陽は映らない。誰のものかもわからぬ返り血を拭った手の甲を、赤黒い血液が伝う。鼻につく硝煙の臭いも視界をけぶらす土埃も、全てが自分を曖昧にするようだ。身体中に走る痛みや疲労感さえまるで他人事のようにこの身を通り抜ける。生きているという実感を越え、地獄の中に幻を見る。
それは昔を想わせるような過去の思い出。寂寥。哀愁。あの人の後ろ姿が甦り、振り向く前に消えていく。
――約束ですよ。
走馬灯のように走る記憶は俺を連れて行ってはくれない。ただ一人置き去りにして、手の届かない場所まで遠ざかってしまうのだ。
次に目を開ければもう、眼前に広がるのは現実だけだった。
「銀時!無事だったか」
敵のいなくなった戦場でぼんやりと佇んでいると、見慣れた長髪の男が駆け寄ってくる。顔だけはまともだというのに、頬や額や所々に煤をつけていることが嘆かわしい。尤も銀時自身も人のことは言えぬ有様だろうが。
「ああ。てめーのヅラも無事か」
「だからヅラじゃない桂だと言っているだろう!俺の髪なら無事だぞ。相変わらずのさらっさらきゅーてぃくるへあーだ。なんなら触っても構わんぞ」
「うるせーよヅラ。ストレートだろうとてめーのはヅラだからノーカンだノーカン。それよか水飲みてぇんだけど。持ってる?」
「ああ、待て。確かこの竹筒に少しだけ残っていたはずだ」
腰に括りつけていた竹筒を取り中身を確認した桂が、あ、と短く声を上げる。つられるように銀時もそれを覗きこむと、中身はものの見事に空っぽだった。
「……すまない。全部飲んでしまったようだ」
「別にいいよ。帰ってから飲むわ」
そう言ってひらりと踵を返そうとした銀時の頭目掛けて“何か”が飛んでくる。その“何か”を難なく片手で受け止めた銀時は、その正体を見て目を丸くした。
「んだよ。珍しいこともあるじゃん?どったの高杉クン」
“何か”の正体は竹筒だった。手で振ればたぷんたぷんと音がすることから、中身が入っていることがわかる。銀時はぱちくりと瞬きをし、斜め後ろを振り向いた。
「ふん。水分不足でぶっ倒れられちゃ敵わねェからな。貸し一だ」
いつの間にか背後にいた高杉が、腕を組んで佇んでいる。相も変わらず偉そうな物言いだが、他でもない高杉が自分に――というか他人に親切にしていることが信じられず、銀時はぽかんと口を開けた。
「ふぅん。おめーも人に親切とかできたんだなぁ……」
「てめぇぶっ殺されてェのか」
「は?冗談。テメーをぶっ殺してやるよ」
「あぁ?」
「あん?」
「待たんか貴様ら!」
二人の睨み合いを止めたのは桂だった。高杉と銀時が些細なことで喧嘩をする度、大抵決まって桂が止めに入るという構図が日常茶飯事になっているのだ。
その場に残っていた志士たちが口を挟めずに見守る中、ひょっこりと顔を覗かせた坂本だけが「おんしらまだまだ元気じゃの〜」とけらけら笑っている。
「元気があり余っているのは結構だが、その力は明日の戦まで取っておけ。今日は身体を休ませるんだ」
桂の一声に、二人は揃って憮然とした顔になりそっぽを向き合った。
まったく……と呆れた先から今度は銀時が高杉の竹筒の中身を一気飲みし、また喧嘩が勃発しようとしている様を見、桂は額を押さえた。
塒に戻り、銀時は真っ先に井戸へ向かった。
まだまだ飲み足りぬと言うように井戸水をすくい上げ喉の渇きを潤す。ついでとばかりに顔や手足をぞんざいに洗っていると、ふと廊下の方から声が聞こえた。
「見たか?坂田さん、今日もすげぇ数斬ってたぜ。さすが白夜叉様の名は伊達じゃねぇってな」
「あれだけ鬼気迫る雰囲気で来られちゃ敵も怖気づくよなぁ。俺には時々、あの人が本物の鬼に見えて仕方ねぇよ」
「ああ、俺もだ……。戦に出る度に、あの人が味方でよかったって思っちまう。ここだけの話、もし敵だったらと想像するだけでしょんべんちびりそうになるぜ」
「なんだよそりゃ。ガキじゃねーんだ、お漏らしだけは止めてくれよな」
笑いながら軽口を交わす二人の男に他意はないのだろう。銀時は生憎こんな風に噂話をされることなど慣れていたのでなんとも思わなかった。むしろ悪意も必要以上の畏怖も感じられないだけマシだ。もっと直接的に、苛烈な言葉で“白夜叉”を詰る者も恐れる者もたくさんいる。
水で洗い流した自分の腕を見つめた。長時間刀を握っていたためさすがに手が疲れている。浴びたばかりの血は水をかけるだけで流れ落ちたが、時間が経ちこびりついた血液はこすらなければ落とせない。
いつかこの腕は血に染まり、赤くなってしまうかもしれない。そんな夢幻のような戯言を、銀時は半ば本気で疑っている。いっそ本当にそうなってしまえば本物の鬼のようで、自分にはお似合いだろうに。
気付かぬうちに出来た小さな切り傷から血が滲むのをじっと見つめていると、不意に人の気配を感じた。
「とうとう緑色の血でも流れてきたか?白夜叉さんよ」
人を喰ったような物言いに、銀時は振り向き声の主を見る。ぼんやりと開いた薄目に、口端を上げた高杉の姿が映る。
「そりゃあテメーの方じゃねぇのか?冷酷非道な鬼兵隊総督サン」
「残念ながら、俺の血はまだ赤ェよ」
そう言って高杉は袖を捲り上げ、腕の傷を見せた。なるほど、確かに赤い。さすれば銀時も高杉も、“鬼”と呼ばれながらもまた結局“それ”に成り損なってしまったらしい。
お互いに苦労するななどと友好的な言葉をかけるはずもなく、銀時は男がしたのと同じようににやりと口端を上げて返してやった。
「そりゃ結構なこって。……なら、血が緑色になったら教えてくれよ」
銀時の言葉に、高杉はいいぜ、と一言返す。テメェもな、と続けられた台詞にはまた笑みを返した。
そうだ、自分は鬼になりたいのだ。全てを護り通す鬼に。誰の理解もいらない。誰一人いない戦場に、ただ独り立ち続けるだけの鬼でいい。
そうして銀時は気付く。“鬼”という冠を掲げる隊の頭であるこの男も、自分と同じように鬼に成りたがっているのだと。
ならば銀時は高杉が鬼になることを止めなければならない。鬼は二人も必要ないのだ。
* * *
周りの音も、色も一瞬にして消え失せる。まるで切り取られた時間の中に迷い込んでしまったかのような景色の中で、銀時はただ目を見開いて立ち竦んでいた。
目の前には斬られたばかりの左目を押さえる高杉の姿があった。おびただしい血液が顔面を伝い指の間を伝い、流れ落ちていく。
銀時はただただ呆然と、それを見ていることしか出来なかった。
そして敵が刀を振りおろし止めを刺そうとするその時になってようやく、銀時は急速に世界を取り戻した。
「っ!!」
瞬時に高杉と敵の間に割り込み刃を受け止める。きん、と耳をつんざくような金属音が鳴り響いた。
耳触りなそれに気を取られている暇などない。腹に力を入れ、大声で叫んだ。
「うおおおおおおおおおおおおお」
その咆哮はまるで人外の生き物のように空気を震わせる。
敵の刃を押し返すように体重をかけ、斬り込む。気を抜いたら終わりだ。一瞬の隙に狙いを澄まし、敵の懐に潜り込んだ。
刀を閃かせ、首に狙いを定める。
ざんっ――と鈍く重たげな音が響き渡ると、一瞬後に敵の大きな体躯から物言わぬ首がごろりと落下し地面を転がった。
「っはぁ……はっ……」
張りつめた緊張感が解け肩で息をする銀時の背後で、微かに身じろぐ男の気配がする。我に返った銀時はすぐさま振り向き、倒れ込んだ高杉の背に手をまわした。
「おい高杉!!しっかりしろ!!」
血の気の失せた顔色は紙のように真っ白になっている。銀時を見上げてくる高杉の唯一無事な右目は、焦点が合っていなかった。意識も朦朧としているはずである。それにも関わらず、高杉はまるでいつものように勝気な様子で唇を吊り上げ、にたりと笑ってみせた。
「はっ……テメェに獲物取られるたぁ、俺もやきがまわったもんだな……」
苦痛に塗れた声音は低く掠れている。
「んなこと言ってる場合か……っしっかりしやがれ馬鹿野郎!!」
叱咤するように声を張り上げる銀時の頬に、のろのろと持ち上げられた高杉の指が触れる。それは血の通わない生き物のように冷たく乾いていた。
「情けねぇツラしてんじゃねェよ……そんなツラの鬼がいるか」
それはこっちの台詞だ、と銀時は返してやりたかった。片目を斬られ血を流し、今にも死にそうな顔をしている鬼がいるだろうか?そのくせまるで心配はないのだと言って聞かせるように優しく触れ、宥める鬼が。
目頭が熱い。熱くて熱くてたまらない。たまらず目蓋を閉じれば、透明な雫が高杉の手に落ちる。それが何かもわからぬまま、銀時はきつく目を閉じた。
鬼になりたいと思った。鬼であればこんな思いをせずに済むだろうにと、そう思った。
* * *
治療を施され、今は意識を失っている高杉の青白い顔を銀時はじっと見つめていた。もう何時間こうしているだろう。何度巻きなおしても滲んできた血も、今はようやく止まったようだ。
暗い部屋の中で心もとなく揺れる行灯の光がぼんやりと男の頬を浮かび上がらせる。静かな部屋には男の呼吸音すら響いて、それが銀時をひどく安堵させた。
生きているのだ。高杉は生きている。左目を失くしても、たくさんの血を流しても。
――約束ですよ。
優しい声が甦る。嗚呼、結局自分は約束を護ることなど出来ていない。あの人との、最後の約束だったのに。自分の手が届く範囲の小さな世界の中さえ、護りきれていないじゃないか。
「くそ…………っ」
握り締めた拳がみしりと音を立てる。いくら願っても想像しても銀時の手はついぞ赤く染まることもなく、緑色の血が流れることもなかった。
護るために殺す手だ。護るために刀を握る手だ。ならば護ることの出来ぬこの手に、一体何の意味があると言うのだろう?
「……鬼に成り損なったか。俺も、テメェも」
その時、静かな声が床から聞こえてきた。見れば白い布団に横たわる高杉が、片目を開けている。
「高杉、」
銀時は呟き、口を噤んだ。高杉を取り巻く雰囲気が、どこか退廃的であることに気付く。
高杉は、まるで痛みなど感じさせないような声音で淡々と呟いた。
「だが、今さら人に戻るつもりはねぇ。片目だろうが片腕だろうが、閻魔にでもくれてやるさ。あの人を奪った世界をぶっ壊すまで、俺は止まらねェ」
天井を向いていた高杉の唯一の瞳が、銀時を捉える。そこに宿る強い光があまりにも危ういものに見えて、銀時は知らず息を呑んだ。
「テメェもそうだろう、銀時」
その瞳が青白く燃える炎のようにじりじりと燃え盛るのを、銀時はただぼんやりと見返した。
そうして今さら、気が付いた。
いつの間にか自分は――この男は、こんなにも遠いところに来てしまったのだと。手が届くなど、おこがましい。護るなど、まるで絵空事だ。自分の護りたかった世界は、知らぬ間にほつれてバラバラになっていた。銀時の、あの人の護りたかったものは、もうとっくに壊れかけていたのだ。他ならぬ自分自身のこの手で。そう気付いてしまった。
だから銀時は、高杉の問いに応えず目を伏せることしか出来なかった。
* * *
数日と経たぬうちに高杉は床から這い出し、以前と変わらぬ力量で戦場に立ち刀を振るうようになる。
そして反比例するように、元々飄々としていた銀時が以前にも増してふらりと一人で姿を消すことが多くなった。
桂はそんな日常に漠然とした違和感を感じていたが、結局それが何かを理解するには到らなかった。
敗戦を感じ、戦場を去っていく者が後を絶たない。物資も食糧も人手も足りぬ。暗雲ばかりが立ち込める雰囲気の中、桂に出来ることは少なかった。しかしだからこそ今が踏ん張り時だと皆を奮い立たせ、先陣を切った。
そうしてまた、鬼と呼ばれる友と、鬼という冠を掲げる隊を率いて走る友の背中を追う。
ただひたすらに。
彼がその正体に気付いた時にはもう、何もかも手遅れだったのだ。
* * *
――みんなを護ってあげてくださいね。
凛とした声がする。逃げ出そうとする銀時の背中を押すように、それは胸に木霊した。
しんしんと静かに雪が降り積もる夜明け前に、銀時は塒を抜け出した。一枚の薄い着物をまとっただけの身体はひどく冷たく、心許なかった。剥き出しの足が霜焼けになるのも時間の問題だろう。それでも構わなかった。
――約束を、と心の中で呟いた。
ついぞ果たせなかった約束を、それでも自分は後生大事に抱えて生きていくのだろう。それだけで十分だと思った。あまり多くのものは、重たくて持ち切れない。何しろこの手にはもう、一本の刀すらないのだ。身を護る防具も全て置いてきた。
裏切るのか、ときっとお前は言うだろう。
忘れるのか、ときっと俺を詰るだろう。
それでも構わなかった。
あの人がいなくなっても世界は何ら変わらなかった。同じように朝が来て夜が来る。変わったのは自分が後生大事に抱えていた小さな世界だけで、壊れたのは幸福に満ちたいつかの夢だけだった。
銀時、と自分を呼ぶ声がする。それが幻なのはわかっていた。それでも前に進まなければいけない、と思った。その声が自分の生を駆り立てる限り。
生きる意味を失っても。死ぬ理由だけ山ほど抱えていても。
「……約束だ」
逃げるのか、と俺は俺を責めるだろう。
許すのか、と胸を食い荒らすような嵐に見舞われながら。
それでも俺は、鬼になることを止めたりはしない。
「護るぜ、先生」
一人きりになっても構わない。目の前に広がる世界に、歩きださなければならないのだ。それが例えこの地獄から逃げ出すことだとわかっていても。現実から目を背けることだけは、もう仕舞いにしよう。
誰に何を言われようだ、思われようが構わない。許されなくてもいい。どうせ誰よりも俺自身が、俺を許さないのだから。
「…………先生、」
泣き出す寸前の幼子のような小さな呟きは、降り積もる雪の中に吸いこまれ消えていく。
その日を境に“白夜叉”――坂田銀時は、誰にも知られずに行方を晦ました。