声
何かどす黒いモノがそこらじゅうに渦巻いていた。
その重く、苦しい空気に耐えられないくらいに。
耐えられなくなった者は各々にその場を後にした。
そんな中でも桂は気丈に振る舞い、これからもっと過酷な戦が続く。その為にも体力を温存せねばならん。と、炊事班に食事を作るように指示を出した。
「桂さん。坂田さんと高杉さんの姿が見えないのですが……」
一人のまだあどけなさが残る顔立ちをした隊士からその言葉を聞いて桂は無意識の内に苦虫を噛み潰した様な表情をした。
***
きつく握った拳から血液が滴り落ちる。
何度も何度も床を殴りつけその場に蹲った。
それ以外に自分の無力さと理不尽な仕打ちに対して、この胸を引き裂くような行き場のない感情をぶつけることが出来なかった。
先生……。
漸く会えた大好きな先生は首だけになっていた。
時はすでに遅かったのだ。
優しかった先生。何も後ろめたいことなんてしていない。
その先生がこうなってしまったのは時代の所為。
そんなことを云う人もいた。
聞きたくもない。
時代の所為?そんなもので人の命が安々と奪われるなら、そんな世の中はいらない。全部壊してやる。
「高杉。メシだってよ」
隊の中では特に高杉、桂。そして銀時が松陽に対する想いが強く、幼少からの仲であることは誰もが知っていた。
故に必然と姿を見せない高杉を呼びに行くことは銀時の役目となった。
「とりあえず胃に何か入れとけ」
銀時の声が虚しく響く。
銀時は高杉の隣に膝を着き優しくゆっくりと指一本一本を広げて掌を凝視した。
くっきりと爪の痕がついた掌。
その血が滲む傷口を舌先で舐める。
ふるり、と高杉の身体が震える。
けれども視線は落としたまま。
「高杉。先生はこんなお前を見てなんて云うだろうな。こんな、何も出来ない俺を見たらなんて云うだろう」
銀時は聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で呟いた。
「俺はなんて云われるかはわかんねぇーけど、今のお前を見ているのは辛いよ」
そう云うと、きつく高杉を抱きしめた。
暫くすると、銀時の両目から不意に涙が零れた。
高杉の頬にその雫が落ちた。高杉はそれに気付き銀時の頬を伝う涙の跡を舐め取る。
あの白夜叉と呼ばれ敵味方双方から恐れられている男が涙を流すなんて誰が想像出来るだろうか。
その涙は、悲しくて苦しい味がした。
先程、銀時が舐めとった自分の血液もこんな味がしたのだろうか?
憎い?悔しい?辛い?不甲斐ない?
もう何が何だか分からない感情の渦の中で二人はもがき続けて、ついには疲れて動けなくなっていた。
先程、桂が夕餉が冷めないうちに来いと、声を掛けに来たがこの場から動けないでいる。
俺達を案じてくれている桂だってこんなことになってしまい心底辛いことに変わりはないのだ。
ただ、銀時と高杉は感情が重なり過ぎた。
抱き合っていた身体をどちらともなく離す。
ゆっくりと、頭を上げお互いの顔を見る。
銀時はいつも通りの顔で真っ直ぐに高杉を見つめていた。
高杉は目が血走り、今にも人を殺しそうな憎しみが抜けない顔をしていた。
違う人間。違う顔、表情。
けれど、想いは同じでその負の渦から抜け出せない。
「俺は絶対に許さない」
「どちらにせよ今は前に進むしかねぇんだ」
だから進んだ。
壊す為に。
守る為に。
***
「銀ちゃん!銀ちゃん!アレ欲しいアル!」
神楽はいつも以上にはしゃいでいた。
彼女が指差す方には綿あめが売っていた。
「神楽ちゃん、食べ過ぎだよ……」
両手いっぱいに夜店で買った食べ物を抱えた新八はため息を吐いた。
「あら。いいじゃない」
そう云うお妙の表情はけろりとしており、財布を取り出し神楽の手を引いて綿あめ屋へ向かった。
「ちょっと、ちょっと。うちの教育方針に反するんですけどぉー」
「銀さんに教育方針もへったくれもないでしょうに」
「贅沢は敵!一度贅沢を覚えたら後が大変なの。分かる?」
「確かに、銀さんの経済力ではそうなってしまうわね。でも、私、銀さんとは違いますから。今日は時別な日だもの。ね、神楽ちゃん」
にっこりと笑みを浮かべお妙は云った。
「姉御……。大好き!姉御の家の子になる!」
神楽はお妙に抱き付いて喜んだ。
その光景をみて新八は微笑ましく思い、柔らかい表情を浮かべている。
「はいはい。好きにしろ。後で腹壊しても知らねぇからな。」
面倒くさそうにそう云うと、すでに三人は人ごみに紛れて姿が見えなくなってしまっていた。
境内に所狭しと並んだ夜店。
祭囃子と威勢のいい呼び声。
嗚呼、遠い昔に自分も神楽のように駄々をこねてあの人を困らせたことがあったな。と、薄れゆく記憶をたどる。
「盆には死者が帰って来るんだと」
そんな時、背後から声が聞こえた。
その代わりにさっきまで大きな音で聞こえていた祭囃子の音が遥か遠くに聞こえる。
懐かしい声。忘れるはずがない。まるで時が止まったよう。
身体は動かない。
「気持ち悪いこと云うなよ」
やっとの思いで口から出た言葉はいつもと大して変わらない陳腐な言葉。
すると高杉は無言で銀時の腕を掴み、人がいない場所を探して歩き始めた。
銀時は少し前を足早に歩く高杉の後姿を見つめていることしか出来ない。話したいことは沢山あるのに、今すぐにでもこの腕の中に抱きしめたいのに……
大勢の人で賑わっている祭りのはずだが自分と高杉の周りだけ薄い膜が貼ってあって、この空間だけが切り取られているように感じた。
重い空気が纏わり付く。
あの時と同じだ。
「どこに連れてってくれんの?」
やる気のない声で前を歩く人物に問いかけた。しかし、その声も彼には届かないのか何も聞こえていないかのようだ。
暫くして祠の裏に着いた。
賑わっている境内からは随分離れてしまった。
銀時は気まぐれな高杉の性格を分かっていたので、自分も好きにしようとその場に座り込んだ。
「盆になっても死んだ人間は帰って来ねぇよ」
ぼそり、と呟いた高杉が今どんな表情をしているのか銀時の位置からは分からなかった。
その表情を見たからと云ってどうってことない。高杉の云うように死者は帰って来ない。
そう。松陽先生は帰って来ない。
高杉の時間はあの時から止まっている。
その錆びた時計の歯車を磨いて動かしてやりたい。
今、二人の距離は近いのに遠い。
「なぁ、高杉。お前あれからどこまで進めた?」
眉間に皺をよせて怪訝な顔をする高杉にはお構いなしに銀時は続けた。
「俺、出来た人間じゃねぇからさー進んでるんだか後退してんだか分かんねぇけど、あの日から歩き続けてるぜ」
高杉の顔を見てニヤリと笑った。
「違う場所に立ってみるのも悪くねぇよ。同じモノも違って見えてくる」
高杉は聞いているのかいないのか、取り出した煙管に火を付けて紫煙を静かに燻らせていた。
深く吸う。
ゆっくりと大きく吐いた紫煙。
少しの沈黙。
「銀時。つまらねぇ話は後にして美味い酒でも飲まねぇか」
「切り替え早いねぇ……さっきまで泣いてたくせに」
「誰も泣いてねぇよ」
苛立ちを隠せない声色で強い口調で反論した。
銀時はニヤニヤと顔を緩ませて立ち上がった。
今も心はあの日の痛みと共に貴方のそばに在る。